渋沢栄一は明治・大正期の実業家で、第一国立銀行をはじめ約500社の設立・経営にかかわり、社会福祉、国際親善、教育、労使関係など、600以上の社会事業に奉仕した「日本資本主義の父」といわれています。2024年度前半から新一万円札のデザインに肖像が採用される人物ということでも話題になっています。
澁澤榮一傳記資料は、澁澤榮一伝記資料刊行会により刊行され、「朝日文化賞」を受賞した本巻が全58巻、その後竜門社によって刊行され、書簡、日記などを収録した別巻が全10巻となり、計68巻にも及びます。
昭和29年から作成が始まり、一日に16ページずつ、活字にして2万本近くを手作業で組版をしました。宅急便もない時代でしたので、東京と仙台の間を往復するトラック便に特製の木箱を設置し、毎日校正をそれに入れてやり取りするという作業を続け、昭和46年に完成に至りました。
弊社刊行の「文化伝承叢書 特別編 妝匣の本質-ひたむきに生きる、刷匠たちの念い」では、澁澤榮一傳記記資料の作成にまつわる当時のエピソードが詳しく紹介されています。
その一部を抜粋してご紹介いたします。
第六章 笹氣出版の金字塔
二 『論語と算盤』……『澁澤栄一傳記資料』にかけた二〇年 より
『澁澤栄一傳記資料』に着手
岡茂雄氏が、笹氣で考案したボンド製本に興味をもたれ仙台まで来られたのは昭和28年(1953)ごろであった。見学のため印刷所においでになった筈だったが、岡氏は、笹氣が日本国内で先駆けて導入したランストン・モノタイプなどを熱心にご覧になると、当初の目的のボンド製本の話は少しもなさらず、お帰りになってしまった。印刷にかける笹氣の情熱に何かを感じられたのだろうか。
その年の秋になって、岡氏から電話をいただいた。
「君、印刷をやるつもりはあるかね」
「どんな印刷ですか」
「渋沢栄一さんの伝記集さ」
「もちろん、やらせてもらいますとも」
「本当にやる氣があるなら、東京に出て来てみなさい」
さっそく、幸助が上京すると、東京の第一銀行(現みずほ銀行)本店に案内された。地下室の棚には資料がぎっしりつまっている。
岡氏は、膨大な本の山を指さして言われた。
「これですよ」
「こんなにあるのでは、10年はかかりますね」
「冗談じゃあない。4、5年でやって欲しいんだ」
「こんなに膨大な量ですから、とても4、5年でできるものではありません。10年、いやヘタをすると20年はかかりますよ」
幸助の話など、岡氏の耳には入っていないようだ。
「9ポイント、何行何字詰で、1巻がおよそ700から800ページ。それで60巻のものにしたい。君のところで印刷できるのであれば、さっそく見本刷を作ってきてほしい」
とにかく話の展開が早いのである。ともあれ見本刷りを作ることとなった。
見本刷りを送ると、早々に岡氏から電話があり、東京へよばれた。
(中略)
当初は、仙台と東京の印刷会社とで、それぞれ一巻ずつ交代で印刷するというお話だった。が、そのことを笹氣の社員たちに伝えると、
「一番最後の奥付に入れる印刷会社名が一回ずつ代わるのはおかしい。そんな馬鹿なことはない」と、不服そうだ。
「うち一社で引き受けて、大丈夫なのか」社内の消化能力を心配すると、
「みんな、やると言っている。仕事を全部もらってきてくれ」すごい意氣込みだ。
(中略)
「よし、わかった。それほど言ってくれるなら、うち一社だけでやらせてもらおうか」
社員たちとの、このようなやりとりがあって、笹氣出版印刷が東京の印刷会社の一割引という価格で『澁澤栄一傳記資料』を正式に手がけさせてもらうこととなった。
昭和29年(1954)9月、『澁澤栄一傳記資料刊行会』が組織され、編集を開始したのである。編集作業は、第一銀行本店4階の同行八〇年史編纂室に隣接する小室で開始されたが、後に規模が拡大された。
刊行会の元締めは渋沢栄一翁の孫の渋沢敬三氏である。
世は神武景氣にわき都会の人手不足は深刻。翌30年(1955)、岩手県盛岡駅から集団就職列車の第一号が出発した。
東京 ―― 仙台 毎日トラックで往復
16頁の校正を、毎日、どういう手段で東京まで送ったらよいものか。
何せ、今から半世紀余も前の話である。インターネットなんて夢のまた夢。テレビすらまだ普及してはいない。
原稿は翌月から送られてくる。校正は書留にして送ってもよいのだが、毎日のことである。簡便に早く正確に送り届ける良い方法はないものか。思案投げ首の幸助であった。
そういえば、国分町にある笹氣の貸家には新潟運輸の営業所が入っている。
「よし、あそこに当ってみよう」
(中略)
当時、運輸会社では、東京から運んでくる荷物は沢山あったが、仙台から東京へ運ぶ荷物はほとんどなかったのである。仙台に営業所のある運輸会社では、一所懸命に上り便の荷物を捜していたから、笹氣の要求をすんなり受け入れてくれた。
笹氣で作った鍵付きの箱に校正を入れて新潟運輸に頼む。すると新潟運輸では、それを東京茅場町にある第一銀行の編纂室の籠にポンと入れ、替わりに原稿の入った箱を仙台へ運んで来るというシステムである。こうして、澁澤栄一傳記資料の校正は、毎日、東京―仙台間をトラックに積まれて往復することとなった。
この頃、漢字の字体が全面的に新字体に切り替えられた。新字体というのは、古くから用いられてきたものに代わって新しく用いるようになった字体で、昭和24年(1949)、『当用漢字表』として提示されたもの。印刷字体と筆写字体をできるだけ一致させることが建前である。公文書や新聞・書籍などでは戦前から一部の新字体が使用されていたが、笹氣で澁澤栄一傳記資料にとりかかるころに全面的に切り替えられたのだ。だが、固有名詞は別扱いだったため、人名、地名などでは旧字体も用いられ混乱も起きていた。
「はて、旧字体をどう扱ったらよいものか」
渋沢栄一翁の資料は、いうまでもなく全て旧字体である。新たな問題が起きた。それで渋沢敬三氏に相談すると、
「新字体にあるものは全部新字体。ないものは全部旧字体にしたらよいでしょう」
とのお答えだ。仮名使いに関しては、
「新仮名使いにしましょう。ただし手紙などは、旧仮名使いで結構だ」
つまり手紙などは原文にあくまでも忠実にということである。
そのような方針を確認して校正が始まった。原稿を読むと難しい文字が沢山ある。
(中略)
さらに、栄一翁のお母さんや奥さんの手紙文には、草書で『まいらせそろ』をくずして書いた筆文字がよく出てくる。流麗な筆致で書いてあるから、本来はどういう文字かと問われても判読に困ってしまい、編集室では大いにもめて、しまいには「これでいいだろう」と、活字二本分で一本に作ったりした。『そうなり』という文字も、草書の筆文字では四角の中に入りにくい。何とか工夫して作ったものの、ベントン彫刻機に大いに助けてもらった。
「文字が間違っている場合は、どうするか」
それでも、『原文通り』が原則だから、脇にカッコでルビを入れて本字を書いておくという、とてもややこしく手のかかる作業が続いた。
まさに艱難辛苦。活字づくりに身を粉にしたが、後年になって
「君のところへ頼んでよかったよ。他ではこんなことは出来なかっただろうな」
と大層お喜び頂いた。
(後略)
笹氣出版「文化伝承叢書 特別編 妝匣の本質-ひたむきに生きる、刷匠たちの念い」pp.161-169(一部改変)
ランストンモノタイプは欧文専用の鋳植機で、キーボードは現在使われているパソコンと同じQWERTY配列になっています。指でキーボードのキーを押して空気圧でロール状の紙(リボン)に穴を開け、文字を記録した鑽孔テープに起こしていきます。
鋳造機の方で、鑽孔テープを読み取らせます。テープの情報に従い、母型ケースがX-Y軸に動き、母型を選択します。選ばれた母型を鋳型に押し付けて、溶けた高温の地金を水鉄砲の要領で噴射し、水で急速に冷やし固めて活字を作ります。
入力されたテープの順番に活字が鋳造されることによって、植字を同時に行うことができ、文選作業を省略することができます。
欧文は文字の幅が様々なため、そのままでは行末が揃いませんが、行末でテープに専用のコードを打ち込むことで、ジャスティファイ(両端揃え)をして改行された状態することができ、行末を揃えることができます。
金属活字は、文字ごとにデザインされた母型をもとに鋳造します。ベントン彫刻機は、その活字の母型を彫る機械です。
文字の形をデザインした原図を描き、そこからパタンと呼ばれるプレートを作ります。
パタンをベントン彫刻機に取り付けて、パタンの凹部を針(フォロア)でなぞるように動かすと、パンタグラフの原理により、その動きに連動して機械の上部の彫刻刀が動きます。その結果、文字の形を大幅に縮小した相似形で細かく彫刻することができます。縮小率は字形を彫るマテとパタンの距離を変えることで調節することができます。
母型の文字の大きさの違いで、そこから鋳造される活字の大きさが変わることになり、様々な大きさの文字で印刷ができるようになります。
この機械を導入することで、日本に無い活字、世界中にも無い活字を作り出すことができ、幅広い印刷物を作ることができるようになりました。
菱形の収縮機構を意味する言葉。
それぞれの角を止めたひし形の角度を動かすことで、2つの大きさの異なる相似形の三角形がペアとなって動く仕組みにより、拡大図、縮小図を簡単に描くことができます。
金属活字の材料となる鉛を主成分とする合金。
金属活字の材質は、一般的に鉛80%、アンチモン18%、スズ2%の合金です。
情報を記録するために使われたテープ状の紙媒体。
2進法の原理で座標や文字コードなどの情報を記録していました。
活字の鋳造と植字を同時に行う機械。
鋳造するための母型を内蔵し、文章の順番に母型を選択しながら活字を鋳造し並べていきます。
一文字ずつ鋳造していくモノタイプと、一行まとめて一本の活字として鋳造するライノタイプに分かれます。
渋沢栄一の詠んだ漢詩283首と和歌383首が収録されています。この本も渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三氏がまとめられ、当社に印刷をご依頼いただき、昭和38年に角川書店から発行されました。
2021年のNHK大河ドラマは、渋沢栄一の生涯を描く「青天を衝け」が放送されています。このタイトルになった「青天を衝け」は渋沢栄一の漢詩の一節から取られたようで、第7回「青天の栄一」にもその漢詩にまつわるエピソードが描かれました。
「青淵詩歌集」において「青天を衝け」が出てくるのは29ページの8行目です。青年の頃に、従兄で漢詩の師でもあった尾高惇忠と共に訪れた、信州の「内山峡」を読んだ漢詩の一部です。前後3行は次のようになっています。
奇巖怪石磊磊横 奇巖(きがん)怪石(かいせき)磊磊(らいらい)トシテ横フ
勢衝青天攘臂躋 勢ハ青天ヲ衝キ臂(ひじ)ヲ攘(はら)ツテ躋(のぼ)リ
気穿白雲唾手征 気ハ白雲ヲ穿(うが)チ手ニ唾シテ征(ゆ)ク