ホーム印刷十話第二話
仙台における印刷も,当然のことながら昔から見ればずいぶんと変ってきている。明治末期の印刷など,その設備,技術は文字通り幼稚であった。当時の1番大きな印刷所は,宮城活版社で,今の市役所西向かいにあり,印刷機を動かすにも,まだ動力を使っていなかった。南京ネズミと称し,重いハズミ車を人力で回し,その回転を機械に伝えて印刷していた。
私の家は,国分町の「畑谷紙店」といって,藩政時代からの紙屋で,私の祖父が東北地方で初めて西洋紙を販売した。そんなわけで,当時東北で1番大きかった東北新聞,そのあとできた河北新報などにも,その用紙を提供していた。私の記憶しているあたりには,すでに東北新聞はなく,河北新報の一力健治郎翁がよく馬で町中をかっ歩し,私の祖父や父と馬からおりては,話し合っていたのを思い出す。
明治の中期から大正にかけてようやく近代印刷の香りが出はじめた。木文も,江馬印刷も明治中期の創業なはずである。股野七郎氏(現東北活版社長の祖父)が,河北新報の番頭さん(今でいう支配人か)から独立して印刷屋を開業した。当時の彼氏の便箋には上部に陸戦隊の兵が軍艦旗を持ち大砲を打っているカットを入れ,左端の余白に「弊社は最新式の印刷機にて電動力にて運転す」とあったのを,今でも覚えている。
大正初期から,仙台の印刷屋も次々でき,活字屋も三軒もあった。当時も今も変わりなく,紙の大量の需要先は,官庁と印刷屋だが,印刷屋はとても支払いが悪く,催促に行くとどなられ,びっくりして逃げ帰ってきたものだ。私は子供心に,どうして印刷屋はこうもタチが悪いのか,大人になっても,こんりんざい印刷屋になんかなるものでないと思っていた。
私の中学時代,関東大震災の前年,父が畑谷紙店の印刷工場を作った。これが私の一生の方向づけをしてしまった。世の中は皮肉にできていて,絶対になるものでないと思っていた印刷屋になってしまった。どうせやるなら,と当時では東北地方で1台もなかった大きな菊全判印刷機を購入,次いで四六全判を入れた。同業者の中では「畑谷は,あんなデッカイ機械を入れて,どうする気なんだろう」と陰評判していたという。昭和の初めに堅型モノタイプを購入,続いて万能自動活字鋳造機を設備した。
当時は河北新報でさえ,自動鋳造機は持たなかった。副社長の故一力五郎氏に飲み屋で会ったので「今ごろ,新聞社たるもの,手廻しで活字を作るなんて手はないだろう」と見に来るようにすすめたら,鼻柱の強い彼は,彼の代りに小関という鋳造課長をよこした。小関氏はすっかりほれ込んでしまい,私が2台設備したのに,17台も注文したので“さすが”と驚いたり,感心したものである。
現在では,どんな印刷所でも,そのつど新しい活字で印刷するようになったが,私の実務にたずさわるようになった頃はまだ使用済みの活字を再びケースに戻していた。同じ活字を大切に,何度も使ったのである。従って,美しい印刷は出来ない。新旧活字の混用ではなおさらである。
当時私の工場での文撰作業が,どうしても思うように捗らない。仕事は溜る一方だし,納期は待ってくれない。文撰係にウンと文句を言ったら係りの連中もムクれてしまい「文字さえ続けてくれればナンボでも拾って見せる」と言う。使用済活字を戻し字させてはもとの本阿弥だし,新しい字を作ってケースを詰めてやれば問題は解決出来るはずである。然し一体毎日使用する活字を全部新鋳したら,そして字詰だけを助手にさせたら,どの位経費がかかるだろうか。それにしても1回使ったきりで活字を捨てるのは勿体ない。然しこのまゝではどうにもならない。
私は新鋳活字で文撰植字したらどうなるかを現場で計って見た。印刷済の版を解版して活字を「戻し字」する作業は,拾う時間の2倍から3倍もかかっていた。新鋳活字は,そのつど機械で活字を造り,使い捨てなので返字の必要がない。全作業時間を文撰作業に向けることができ,文撰原価が使い捨ての方が安くつく。これを発表したら,自動鋳造機メーカーは,私の作った原価表の数値を東京のそれに代えて早速「活字1回限り使用」と称して宣伝した。いまはあたりまえのことも,当時はビッグニュースだった。
戦後わが国でも1本々々文章の通りに活字を鋳造し拾う手動モノタイプの開発に私も協力して成功,その後は符号によるテープを使う全自動モノタイプができ,新聞,印刷界で活躍している。今後は,このテープ様式でコンピューターを通しての写真による植字が,高速度で行なわれるのが一般的になるだろう。
文字を拾う技術者は,戦前は1日(今より多少作業時間は長い)12,000〜15,000 字を採字した。現在は7,000〜8,000 字であろうか。それがテープによるさん孔だと,キーボード1台で1日20,000字はできるだろう。それをコンピューターにかけると分速約600字,時速にして36,000字は採字できる。これから,ますますスピード化され,目の回るような日々を送ることになりかねない。昔のことを思うと,この業界もまったく隔世の感がある。