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第六話

当初は不可能視 2千年来の様式に革命

千年一日の基本的技術

ゴシック風世界3大伽藍といえば,パリのノートルダム,ミラノ及びケルンの大聖堂である。このケルンの大聖堂には付属図書館がある。私はここのドミニコ会修道院に約1ヵ月間修道士たちと起居を共にしたので,この図書館にも何回か通った。その折り,紀元3世紀の手写本を見せられた。紙は羊皮紙,表紙は厚さ5ミリぐらいの朴の木の板に白の鹿皮を張り表面には金箔で模様がデザインされていた。内容はセピア色のインキで,明らかに鵞鳥ペンで書いたものだった。インキには何を用いたのか聞いてみたらタコやイカの墨だとのこと。色がおかしいというとこれらの墨は書いた時は黒っぽいが時が経つと紫ばんだセピア色になるという。

ところがその製本だが,現代の洋製本のそれとほとんど変わりがない。変わっているのは羊皮紙と綴糸が木綿ではなくガットを使用していることだけだった。ガットは羊の腸をラセン型に切って,それを縫って作った庭球のラケット用網糸,あれの細いものだ。3世紀といえば今から1700年も前のこと,製本術の基本的考え方は全く文字通り1000年1日である。ここでも人間の考えなんて,昔も今も大した変わったものではないとつくづく考えさせられた。何か製本方法で新しい考えはないものか。

戦後の物質不足から誕生

戦争末期から戦後しばらくの間は製本用の糸,針金はなくなった。生麩でさえ配給だった。戦争直後,仙台にも進駐軍が来た。その教会の牧師から日曜礼拝のためのプログラム印刷を頼まれた。当時欧文印刷は私のところだけであった。したがってあらゆる宗派,ユダヤ教までやって来た。紙不足の当時,用紙は米軍持参,印刷料は相当高く見積もっても彼らにとっては「笑うほど安い」。水曜は原稿持参,木,金曜は製版,校正,印刷。土曜日は受け取りに来る。それでこれらの日には会社の前はジープの行列になる。そのうえ時々洋モクのプレゼントがつく。これでは上々お得意様である。

ある日カトリックの従軍僧が来た。しりのポケットに美しい小さな本がのぞいていた。見せてもらったら,ミサの順序を書いた本だった。表紙は美しい多色刷りでその表面はテカテカピカピカ。ニス引き印刷ではこう美しくはならない。私はこの本をもらい受けてすぐに表紙の点検をした。それに透明な軟らかい映画フィルムのようなものが貼りつけてあった。今のビニール張りである。表紙を本からはずしてみたら製本には糸も針金も使用していない。本の背を何かゴムのようなもので貼りつけてあるばかり。これは面白い。

実は戦争中は資材不足だったので,本の背を全部裁ち落としてその小口をのりで貼るか,紙そのものを何か薬品で溶かしてワンブロックにしてしまう方法を考え,いろいろと実験して見たがよい方法は見つからないでしまった。今,それに出会ったのだ。それでこの種ののりを探し回った。そして結局ビニールシート貼合用のりを発見した。大型歯みがきチューブぐらいのもので当時200円。ずいぶん高価なのりだったが,これで見事成功した。はじめ私の工場の製本部では,紙の小口を貼っただけではページが抜けてしまうだろうとなかなか試そうとはしなかった。私は300ページぐらいの白紙の本を10冊試作させた。来訪の友人たちに見せたら,これは面白いとて皆勝手に持ち去ってしまった。今ではただ1冊だけ残っているばかりだ。すでに25年を経ているが,まだ立派なものだ。内容紙1枚をつまんで本をブラ下げても抜けても来ない。こののりは「ビニールボンド」と書いてあったので仮に「ボンド製本」と呼んでいた。後に紙のためのペーパーボンドが開発され,今の「ボンド製本」あるいは「無線綴」と呼ばれるようになった。現在電話簿をはじめ,数多くの製本に用いられ,そのための専用機まで出来ている。2000年近くかかってようやく製本様式が多少変わったことになる。

“特許”への思いは複雑

私の娘にはそれほどのものならなぜ特許を取らなかったと笑われたが,特許などを取るとその方法がなかなか一般化しにくい。開放すればよく使用される。それが私の目的だと偉そうなことを言ったが,こんなに使用されるんだったら特許を取っておいた方がよかったのではないか――と心ひそかに思わないでもない。