印刷十話

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第七話

同じ色を出す難しさ 結局は技術者の腕と感覚

その昔,ヘンデル,モーツァルト,ベートーベンなど楽聖といわれる人々も,出版屋には頭が上がらなかった。というのはそのころ楽譜の印刷は非常に高価につくため,当時の有名音楽評論家や出版屋が頭をタテに振らない限りどんな名曲が生まれても出版されなかったからである。今でも時々楽聖の未発表の楽譜が,その死後何十年に発見されたものとか言われる曲にお目に――ではなくてお耳にかゝることがある。これらの殆んどは出版されなかった楽譜でそのため未発表となったものである。

1798年ごろセネフェルダーが石版印刷術を発明,これで絵画や楽譜の印刷がずいぶん手軽に行なわれるようになった。これはドイツのバイエル地方産出の大理石ようの石を版材にする。この石は多孔質で,油性との親和力が強くかつ水分を与えると一様に吸収して長く保つ性質がある。この性質を利用して油質の墨汁で画線を画き,非画線部には水分を与える。それに油性のインキをのせると当然水分保持の非画線部にはインキがのらない。そして油性の画線部にのみインキが付着し,このインキを紙に移し取ったのが石版印刷,つまり平版印刷である。この石は非常に重く取り扱いに不便なので金属板を用いることを考えた。然し金属板には残念ながら保水性はない。それで金属板の表面にスリガラスのような小さな無数の突起を作り,保水性を持たせて印刷版にすることを考案,この版から直接印刷していたのが偶然の機会からこの金属板からゴム布にインキを移し(オフして)それから紙に画線を印刷する(セットする)とよりよい印刷物が得られることを発見した。それでその印刷法をオフセットと呼ばれるようになった。

石版印刷術に使われた石板

このオフセットの多色刷りは,現在ポスターや複製絵画で見られるように実に美しい立派なものが出来るようになったが,50年前は全く幼稚で,ポスターなどのためには十数回も色を刷り重ねなければならなかった。大正年間にはキリンビールの美人ポスターが十数回刷り重ねて,当時は非常に美しいものが出来たと話題になった。印刷も大変だが,その製版にはもっと苦労させられたものである。1837年フランスのダゲールが写真術を発明してから,逐次研究発展をとげ,印刷にも利用されてきた。そして戦後は印刷術と写真術がドッキング,写真なしには平版印刷は不可能にまでなってしまった。

戦前東北帝大医学部から,乳幼児のウンコの印刷をさせられたことがある。ウンコはその病気診断の重要な要素らしく,色は忠実に出せとのこと。絵の具で書いた十数枚の便の色は印刷インキの色相と全く違うので,その再現にはとても苦労しB5判たった二枚の挿画に10回以上も刷り重ねたのを思い出す。本多光太郎先生,加藤豊治郎先生のご退官記念肖像の複製印刷にはいま考えるとおかしいほどの熱情と労力を注いだものだった。

戦前,私のドイツ滞在中にコダカラーが発表され,その色の美しさに一驚した。少し遅れて8ミリカラーフィルムが発売されたのでさっそく購入,写してみたら露出の不慣れで美しく写ったり,青あるいは赤が勝ったフィルムが出来てガッカリしたが,私の処女作は仙台空襲で全部烏有に帰した。戦後米軍から35ミリコダカラー1本をもらい,医学部の友人に頼まれて顕微鏡写真を写し,米国に送って現像してもらった。彼はこのカラー写真で学会報告を行なって非常に珍しがられ,本邦最初のカラーによる学会報告だったと感謝された。夢のような話である。

ところで今の印刷はカラー時代である。つい十数年前まではその色分解(原画を4色あるいは7色に分色すること)はとても高度の技術を要して高価についたが,現在はまず原画をカラーフィルムに写し,それを電子的に4色に色分解するカラースキャンニングの機械も出来た。私は印刷団地の専門業者をくどいてこの機械を組合協同施設に設備してもらった。

元来このカラーフィルムも,その色相,色調ははなはだ不安定である。現像されたカラーフィルムは写した現物や風景と完全な同色には絶対にならない。そのフィルムから製版するのだからいかに電子製版でも現物と同色に仕上がることは難しい。カラースキャナーも色調の調整は可能なのでよい色調を出すよう心掛けるが,それにはやはり技術者の技能と感覚にまつより外はない。日本の平版印刷も欧州でのポスターコンクールなどでいつもグランプリを獲得するほど上手になっている。日本人の色感のよさと仕事に対する潔癖さのせいだろう。外国のそれに比して決してそんしょくはない。

このごろは,米系出版社が外国で印刷した複製名画を1枚2万円近くではん布会をしているとか。どんな印刷物か知らないが日本で印刷したらそんな高価にはなり得まい。パリのルーブル,ローマの国立博物館,ニューヨークのメトロポリタン美術館へ行ってもそんなによいカラー複製印刷物にはお目にかかれない。このように高価なものはバカバカしいとも思うし,ムダとも考えられるが,印刷研究のために1枚ぐらい買ってみようかとも思っている。